ヨガの定義「チッタ・ヴリッティ」とは何か?心の動きの静止で自分を知る【ヨーガ・スートラ】

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今回は、『ヨーガ・スートラ』著者パタンジャリの教えの鍵である「チッタ・ヴリッティ」について解説していきます。『ヨーガ・スートラ』の教えでは、「チッタ・ヴリッティの静止=ヨガの定義」ともされています。そのため、チッタ・ヴリッティを理解することにより、ヨガへの理解が得られるようになるでしょう。

『ヨーガ・スートラ』とは、ヨガの根本教典といわれている書物です。詳しくは下記の記事をご覧ください。

はじめに〜本当の自分とは〜

人間の生活は、「チッタ」と呼ばれる個人意識、すなわち「心」で覆われています。そして、その心は常にヴリッティ・・・「活動」し続けているのです。人間は、自分が何者なのか、本当の意味では知りません。なぜなら、個人意識は自分自身ではコントロールできないからです。

パタンジャリは、意識の制約から逃れ、「チッタ・ヴリッティ・ニローダ(脳内活動の完全なる静止)」の状態になることで、本来の自分を取り戻すことができると説いています。本当の自分を知ることこそが、ヨガの目的だということです。

チッタについて

パタンジャリ哲学で鍵となる言葉が、「チッタ」です。この章では、チッタという言葉がどのようにヨガに関係しているのか説明していきます。

チッタとは

チッタは「意識・自覚・知識」を意味する「チット」という言葉がもとになっています。チッタは、チットの限定された側面で、各個人に表れる制約された「意識」を指します。現在の活動や過去の記憶、未来の期待などの個人的な意識です。

パタンジャリは、「個人の人生は常にチッタ(意識)の枠内にある」といいます。この、自分を取り囲む意識の枠外に出ることが、ヨガの目的の一つだとされています。

チッタとサーンキヤ哲学

チッタの本性とその動き方を深く理解するためには、「サーンキヤ哲学」の枠組みを知るのが近道です。サーンキヤ哲学はインド哲学の主要体系の一つで、ヨガ哲学の基盤ともなっています。

サーンキヤ哲学は、「二元論的多元論」などといわれることもあります。これは、本来の自分「真我(プルシャ)」と、それ以外の世界や物事を「自性(プラクリティ)」として分ける考え方です。

この哲学では、「心」も「身体」も「私」ではないと説いています。ヨーガ・スートラを読み進めていくと、自分自身は、「心」を介してしかこの世界を見ることができないということが分かります。

本来の自分を知るためには、この「心」・・・チッタの動きを静止する必要があります。

純粋意識を求めて

自分の内面を深く観察すると、私達は意識下のもと動いているのにも関わらず、純粋な「意識」は感じ取れないことが分かります。

私たちの意識は、常にエゴの影響下で形成され、意識からさまざまな思念が生まれていきます。世の中や自分自身についての理解は、こうした制約された意識からなるものです。

私たちが生きていく過程で悩んだり、随所で問題が生まれたりするのは、制約された意識からくるエゴ同士の衝突が原因となる場合が多いでしょう。そこで私達は純粋な意識を求め始め、ヨガの道へと通じていくのです。

世の中は思っているより曖昧な存在

パタンジャリ哲学でいえば、人間の人生で起きていることはすべて、実際にはチッタの中で感じているに過ぎないということです。私たちは、世界が自分の意識下に入ってきた限りにおいて、はじめて自分の世界を知ることができます。つまり、自分が通る部分でしか、世界を測れないのです。

私たちがよく知っているようにみえる人々についても、実際はごく限られた部分しかしり得ません。家族や友人、恋人・・・そのような近しい存在の人のことですら、実際は他のものと比べてほんの少しだけ知っている程度に過ぎないのです。

ある時点における「世界」は、その時点で、私たちの意識に映っている部分のみが存在しています。そして、そのほかは極めて曖昧な存在なのです。

チッタは変化し続ける

また、チッタは常に変化し続けます。特定の時点で重要な人間や物事も、次第に記憶から霞んでいきます。私たち自身が何者なのかということについても、とても曖昧な概念があるだけで、その概念すらも常に変化し続けます。

そのため、流動する意識下では、自分自身についてごくわずかにしか知ることができないのです。「チッタ・ヴリッティの静止=ヨガの定義」とされるのは、そうしたチッタの性質によるところが大きいでしょう。

ヴリッティについて

チッタに次いで、ヨガ哲学で理解しておくべき重要な概念が「ヴリッティ」です。ヴリッティとは、サンスクリット語で、「活動」または「出来事」を意味します。

パタンジャリは、意識の活動、「チッタ・ヴリッティ」には5つの種類あるといいます。『ヨーガ・ストーラ』によると、我々の個人意識は常に、次の5つのいずれかの状態に当てはまっているとされています。

  1. 正しい認識
  2. 謝った認識
  3. 言葉による概念化
  4. 睡眠
  5. 記憶

ヴリッティの性質と作用は、別の解釈でも分かりやすく理解できるでしょう。『ヨーガ・スートラ』を解説したアニル・ヴィディヤーランカールの著『ヨーガスートラ パタンジャリ哲学の精髄』では、各時点におけるマインドの状態を下記の5つで説明しています。

①フィーリング

他の意識の働きを決定する基本的なヴリッティが「フィーリング」です。

私たちは常に「何か」・・・つまりフィーリングを感じながら生活しています。通常、私たちは特定のフィーリングに気づかずにいて、目立った結果が行動に現れてからようやくそれに気が付きます。たとえば、自分でも意識していない怒りから現れた自身の行為や発言により、怒りのフィーリングに気が付くのです。

フィーリングは常に変化し続け、いかなるときでも一つのフィーリングを保ち続けることは不可能とされています。フィーリングは自然発生的なもので、自身の内部に勝手に発生するのものなのです。

大抵の場合において、フィーリングの原因は自分の意識的な理解を超えています。そのため、自分で感じたいと思った感情をすぐ掻き立てることはできません。そして、特定の時点で内部に湧いてきたフィーリングに気が付くと、それに従い行動したり、考えたりします。

②知覚

第二のヴリッティは、「知覚」の動きです。人間は外部の情報をすべて、知覚の働きを通して得ているとされています。

私たちはある人や物事について、原初の知覚のあと、知覚対象について何らかの観念を持ち始めます。私たちが知覚するものは、その時点における「フィーリング」に依存します。

物や人の知覚の仕方は、それらに関連した連想によるところが大きいでしょう。私たちの知覚は、自分のもともと持っている情報の偏りのため、よく誤ることがあります。人間はしばしば、自分と相手の知覚が同様だと勘違いします。そのために問題が起きたり、争いが発生したりもします。

物事は必ずしも、私たちがそうだと知覚するものではないということです。

③記憶

三番目のヴリッティは、「記憶」の働きです。私たちの記憶は、知覚された人や物に関連して貯蔵されていきます。それは時が経つにつれ霞んでいきますが、痕跡は残ります。

記憶は人間の生活の中で、過去に起きた物事を思い出すときに使われます。記憶は、現時点で自分が知覚している人や物について何らかの観念を持ち始める際も介入していきます。

たとえば木をみて、それを木と認識するのにも記憶との連携が必要です。自分が木を木だと認識するための記憶がないと、それを木だと判断できないからです。知覚している物体に関する私たちの観念のすべては、実際の知覚部分ではなく、私たちの記憶に基づいています。

この世界で起きていることについて何らかの意味を汲み取れるのも、私たちの記憶がたくさんの人や物、出来事のイメージを蓄えているからです。そうしたイメージなくして、私たちは何かについて知ることはできません。

実際、記憶がなければ私たちは「自分が誰なのか」についても知ることもできないでしょう。なぜなら、自己存在に関する観念さえ、自分が持つ自分についてのイメージに基づいているからです。

④思考

四番目のヴリッティは、「思考」です。思考とは、常に私たちを包むように取り巻く頭の中の意識過程です。

思考は、私たちによって作り出されるものではないとされています。思考は、私たちの内側の「フィーリング」によって支配されている、というのがパタンジャリの解釈です。先述したとおりフィーリングは自動発生的なもので、私たちの内部でひとりでに起き続けています。そうしたフィーリングにより作り出された思考から、自分自身が何らかの感情に取り巻かれていることに気が付きます。

たとえば誰かに侮辱されると、私達の意識は「傷つけられた」という感情に結びついた「思考」に取り囲まれます。思考は容易く止められません。

そういった抗い難い思考の波から逃れるには、落ち着いてゆっくりと、自分の思考を眺めるように観察することが必要です。自分の思考を冷静に深く観察すると、自分の真の性質が分かりはじめるでしょう。

ただし、実際はその時点で自分を覆い尽くす思考に支配され、自分の思考を落ち着いて眺める余裕はないことがほとんどでしょう。しかし、思考の次元を超越したとき、私たちははじめて自分とは何か知ることができるのです。パタンジャリ哲学では、それがヨガの精神的探求を通じて可能になると説いています。

⑤想像

ヴリッティの最後は、「想像」です。思考は常に現実に束縛されているので、何か問題を解決する際にはこの「想像」の働きが役立ちます。想像は何の束縛もない、いわば「心の飛躍」です。

想像は、人間の生活の中で大きな役割を果たすといえます。私たちは、幸福な生活や理想的社会を想像し、努力や日々の地道な行いで現実化しようと努める傾向にあるからです。

また、宗教的な事柄はすべて「想像」によって作り出されたものとされています。ここには「恐れ」や「願い」が多分に含まれています。想像は人によって違うことから、問題や争いが起きることもあります。このように、想像は非常に創造的である一方で、破壊的な要素もあります

ヴリッティを意識し心の働きを冷静に理解する

以上、5つのヴリッティを紹介しました。私たちの知覚は、しばしば記憶と混合します。思考はフィーリングと同様に意識に常在しています。意識がある限り、心に何らかの思考が存在します。想像は、知覚と思考の中で偏在的役割を担っています。

このように、すべてのヴリッティは相互に影響し合い、絶えず働き続けているのです。

ヨガ哲学では、この5つのヴリッティを意識し、自分の心の働きを自分自身で冷静に理解できるようなることが大切です。

チッタ・ヴリッティの静止の重要性

お伝えしたとおり、人間は常に自分のフィーリングに導かれており、フィーリングに対して統御がききません。自分が何時に起き、朝食に何を食べるかは別のフィーリングに依存しています。読む本や通勤電車で何をするかもフィーリングで決まります。

フィーリングは、基本的に人間が統御しえないものと考えて良いでしょう。人間の行為の主体は、フィーリングよって決まります。つまり人間自体は、内なるフィーリングの指示を運ぶ道具に過ぎないとも考えられます。その意味ですべての人間は、フィーリングとそれに続く思考過程・・・つまり「チッタ・ヴリッティ」に囚われながら生きていく必要があるということです。

パタンジャリは、私たちがそうしたフィーリングの束縛から自由になるためには、フィーリングを統御すべしと説きます。そのためには、「チッタ・ヴリッティ・ニローダ(脳内活動の完全なる静止)」の状態になる必要があります。つまり、それがヨガの目的ということになります。

私たちが自分の心の動きの一切から自由になり、内面的に完全なる静寂を体験したとき、はじめて本当の自分を知ることができる。これがパタンジャリの考えるヨガの目的です。

実践して体験すべし

しかしパタンジャリは、この「チッタ・ヴリッティ・ニローダ(脳内活動の完全なる静止)」の結果どうなるのかについては説明していません。

ヨガの目的の達成は、心による理解を超えた、言葉では表せない状態といえるのかもしれません。パタンジャリは、ヨガの道を歩む人びとに対して「心の活動を停め、超越的な状態の本質を自ら発見せよ」と勧告しています。

つまりヨガとは言葉では説明し尽くすことができない行いであり、実践して体験する必要があるということでしょう。

まとめ

以上、「チッタ・ヴリッティ」について解説しました。現在、健康法や運動の一種として日常に取り入れられることの多いヨガですが、根本にはこうした「心の科学」といった側面があるということがお分かりいただけたのではないでしょうか。

何度も述べているように、私たちの生活は「チッタ・ヴリッティ(心の活動)」の絶えまない遊戯です。チッタ・ヴリッティは、意識しないと、なかなか自分でコントロールできるものではありません。

本当に自分を知ることができるのは、表層の心の活動を停止し、自分の内部に潜り込み、チッタ・ヴリッティが出現する意識の根源を見つけたときなのではないでしょうか。

ヨガを通して心が完全に静まったとき、はじめて本当の自分を知ることができるでしょう。

参考

『ヨーガ・スートラ』(400年ごろ)編纂 パタンジャリ
『ヨーガスートラ パタンジャリ哲学の精髄』(2014年 )東方出版 著ヴィディヤーランカール 編訳中島 巖