突然ですが、センスのあるエッセイが書きたいとは思いませんか。私は思います。強く思います。
センスのあるエッセイを書けば、「この人センスがあるんだなあ」と思ってもらえるし、センスのあるエッセイストとして旅雑誌の片隅なんかにエッセイを掲載させてもらえるかもしれません。私はそんな人生を送りたい。サウイフモノニ、ワタシハナリタイ。
本記事は、センスに囚われすぎた筆者が、本当の意味での「センスのあるエッセイ」が分かるようになるまでの奮闘記、もとい成長譚です。「海沿いのカフェでボサノヴァ聴きながらかっこいいエッセイ書いて億万長者になりたいぜ」と思っているそこのあなたにとって必見の内容となっております。ぜひぜひ、最後まで血眼でご覧いただけたらと思います。
筆者 。ライター。コーラとお笑いが好き。万年中二病。永遠のバイブルは『風の歌を聴け』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。
エッセイとは
weblio辞書によると…
エッセイとは、特定の文学的形式を持たず、書き手の随想(思ったこと・感じたこと・考えたこと)を思うがままに書き記した文章。「随想録(ずいそうろく)」とも呼ぶ。
随想録、だなんて、なんかかっこいい…。そうそう、日本だと「随筆」とも呼ばれていますね。『枕草子』や『方丈記』などが有名です。
ほうほう、つまりエッセイとは「極めて自由に書いて良き文」なんですね。…一番困りますね。ある程度形式があればそれに沿って書けますが、自由にと言われると、逆に何を書いて良いのか分からなくなってしまいます。
はっ。まさかそれがよく言う…「あなたのセンスに任せる」って、やつ?そうか。センスって型がないのか。うーんこれはなかなか、腑に落ちる。
小説との違い
小説も、なんだか自由な感じがしますよね。エッセイとどう違うんでしょうか。ちょっとググってみましょう。
なるほど、先述のとおりエッセイは、自分の感じたこと・体験したことを自由に文章で綴ったもの。大抵の場合、自分の身に起きた事実をもとに書かれているので、ノンフィクションということになるでしょう。
一方「小説」の場合、基本的には「物語」であり、主人公が存在し、主人公が体験する架空のストーリーとなるので、フィクションです。
つまりエッセイは、小説と違い、筆者自身の体験や感じたことをフィクションとして文章にするということなんですね。
エッセイを読んでみよう
何かにチャレンジする時はまず「偉大な先人たちを真似ろ」と『ドラゴン桜』の桜木健二さんに教わりました。というわけで、世に出ているセンスありありエッセイを片っ端から読んで見ることにしました。
面白かったエッセイを紹介
さまざまな気づきを経て、気になったエッセイ本すべて読了。いやあ、非常に有意義な時間でした。
エッセイ、まじおもろい。趣深い。学び多い
ライター歴5年、ここまでゆっくり本を読んだ時間は今までなかったかもしれません。マジな話。少なくとも、エッセイをまとめて数冊読むなんて時間は、私の人生に存在しませんでした。なんともったいない…。今では悔やまれるほど、エッセイは奥が深くて面白かったです。
選んだのは「旅行記」「暮らし・日常」「生き方」「趣味」「人間関係」といったジャンル。著者も作家から俳優、脱サラリーマンなど幅広く、さまざまな価値観に触れられるような選出にしました。
それでは早速、読んだエッセイの率直な感想を述べていきたいと思います!
『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』若林正恭
こちらはお笑いコンビオードリーのツッコミで、近年はバラエティ番組のMCも多数担う若林正恭さんがキューバ旅行をした際のエッセイ本です。
競争社会に踊らされていることに気が付いた若林さんが、競争社会ではない、別のシステムで生きる人々を見てみたいと思い、キューバへ旅立ちます。そこで体験したことや、旅を通した感情の揺れ動きが繊細に描かれています。実際に若林さんがキューバ旅行で撮った写真も一緒に掲載されています。
昔から何度も読むくらい大好きなエッセイ本ですが、記事を書くにあたり再読。単行本を読んだのは発刊された2017年なので、なんとも5年も前になります。今回は、若林さんによる書き下ろしエッセイやDJ松永さんの解説が追加収録されている文庫本版を読んでみました。
繊細で内気な等身大の人間
本作では、読み手がどぎまぎしてしまうほど、「若林正恭」という人間が正直に描かれています。「えっ、こんなに全部出しちゃって良いんですか、え、大丈夫ですか」とたじろいでしまうほどに。その赤裸々な心理描写には、若林さんの覚悟が見て取れます。もう何も偽らない、偽りたくないという、壮大な覚悟が。
所々コミカルな描写はあるものの、基本的に作品のベクトルは「笑い」や「オチ」へ向かっていません。そこにはあるのは過度に読み手を意識したエンターテイメントではなく、繊細で少し内気な、等身大の一人の人間がいるだけでした。
若林さんは、しきりに東京から、この社会の枠組みから、自由になりたいと願っているようでした。タイトルにもなっている、カバーニャ要塞で気ままに眠っている野良犬の溌剌とした気高さに触れたシーンはとても印象的です。
それは救いの言葉
読み終わると、心の荷が降りたような心地がし、自然と涙が溢れていました。このエッセイをはじめに読んだ2017年と2022年の今では、人びとの生活は大きく変わりました。私自身もその頃と今では境遇や気持ちも変化していて、自ずと本エッセイの読後感にも変化がありました。
物書きの夢を必死に追いかけていた20代前半の2017年は、エッセイを読んで「よし、私もこの東京で必死に生き抜いて見せよう」と意気込んでいました。しかし20代後半、人生への停滞を感じるいわば「クォーターライフクライシス」の現在に読むと、若林さんの言葉一つひとつが救いのように感じられて、どうにも泣けてくるのです。
普段東京で生活をしていて感じる、言語化できなかった焦燥や不安を、若林さんが言葉にしてくれたように感じました。「ああ、こんなにも生きづらいのって、こういうことだったのかな」と。そして、「頑張らなくてもいいかな。もう少し速度を落として、自分のペースで」という気持ちにもさせてくれる。きっとこのエッセイを読んで、私のように救われた人はたくさんいるのではないでしょうか。
それはやっぱり、一人の人間が、嘘偽りなく自分を曝け出しているから胸を打たれるのだと思います。テレビでよく見る人気者だからとか、漫才の大会に出ていた実力者だからとかではなく。もがきながら生きている一人の人間のよって書かれたものだから、こんなにも涙が出るのでしょう。
DJ松永さんの解説にも注目
若林さんの率直な言葉に救われた人間のひとり、それが彼、DJ松永さんなのでしょう。
ヒップホップユニット「Creepy Nuts」でDJを担当しているDJ松永さんによる文庫版の解説も、なんだがグッとくるものがあり、余計に涙を誘いました。解説というよりは、若林さんに宛てた愛のこもりまくったラブレターのような感じなのですが、これはこれで、もはや松永さんによる立派なエッセイだなと。
「世界大会でDJの賞を取ったすごい人」「ラジオにテレビに引っ張りだこの成功者」と勝手なイメージを持っていたのですが、その文章から見える彼は、あまりにも人間臭く。若林さんの存在にどれほど救われたかという感謝が、ストレートな言葉で飾らずに綴られているのです。
私は本エッセイを読み、人間にレッテルを貼ることのくだらなさを痛感したのでした。間違いなく、最高のエッセイだと思います。
『そして生活は続く』星野源
こちらはアーティスト、役者、文筆家と幅広く活躍する星野源さんの初エッセイ集。日々の「生活」が苦手な星野さんが、誰にだって家に帰れば待っている地道でつまらない日常をどうにか面白がろうと立ち向かう奮闘の様子が、共感と哀愁誘う文章で綴られています。
帯に「トイレか旅のお供にどうぞ」と記されていたのでトイレで読んでいたら、長居しすぎて家族に怒られてしまいました。そのくらいとても面白く、一気読みしてしまうエッセイでした。
「スター性を自ら剥がし圧倒的共感を得る」
面白いと思ったのが、この本を読んで星野源さんという人物のイメージが必ずしもアップするわけではないということ。大変おこがましいこと重々承知ですが、むしろ「友達にはなれなさそうだな…」と思ったくらいに…偏屈ではあります。しかし、星野源さんへの親近感は爆上がりします。これはもう、本気の爆上がり。なぜなら、華やかな業界にいて一見成功者のように見える星野さんと、普通に毎日を過ごしている自分が同じような生活をして、同じようなことで苛立ったり落ち込んだりしているということが知れるからです。
星野さんは、「芸能人」という自分の輝かしいレッテルを自ら剥がし、「自分も皆と同じ人間」という部分をエッセイでストレートに表現しています。それが、読者からの圧倒的共感を得られたという大きな所以なのではないかと思いました。
周辺人物が魅力的に描かれている
くだらなくて馬鹿馬鹿しいのに、妙に心があったかくなる本作。特に星野さんのお母さんはすこぶる魅力的に描かれていて、大好きになっちゃいました。お会いしたこともないのに、不思議ですよね。星野さんの仕事仲間でよく喫茶店で話をするKさんも、竹を割ったような性格で好感が持てます。どちらかというと星野さんよりも周辺人物が魅力的に見えてくるエッセイの構成も、うまい、です。
すごく個人的なことにはなりますが、現在星野さんの妻にあたる女優、新垣結衣さんのファンでもある筆者。エッセイのなかで、星野さんが孤独な自分に対し、「ひとりじゃなかった」と思う日が来るのだろうかと案じている場面があります。
「うわーひとりじゃなかった」と思う日が、来たりするのだろうか。
(中略)
たとえばいつか結婚したり、子供ができたりしたら「自分はひとりではない」と感じられる日が来るかもしれない。
(中略)
「ひとりひとり」ではなく「ふたり」であると言う実感を持てる日が来たら、素直にもなれるのかもしれない。
星野源『そして生活はつづく』より抜粋
そんな過去の星野さんに、「大丈夫。あなたは今ひとりじゃないはずだよ」と言ってあげたいような、まだ言わないほうが良いような…。そんな暖かい気持ちになりました。現在の星野さんを知りながら読むと、さらにこのエッセイの趣が増すのかなと思ったりしました。
『あやうく一生懸命生きるところだった』ハ・ワン
韓国でベストセラーを記録した本作。40歳で会社を辞めた著者が「一生懸命生きない」生き方や自分らしく生きるコツを綴った本作。こうしたエッセイ本が韓国でベストセラーになるのは、日本よりも激しい競争社会の韓国の世相を反映するようですね。
作者は40代の男性。ふと自分がどこを目指しているのか分からなくなり、思い切って会社を辞め自分らしく生きる道を模索するようになります。
人生の悩み立ち止まった時、何度でも繰り返し読みたいと思える至極の生き方エッセイでした。
作者の混じりけのない本心
このエッセイの良いなと思った点は、仕事を辞めて出世街道から降りた作者が「今が100%幸せだ」とは言っていないところ。
まだ自分の選択に迷いがあったり、本当にこれでよかったのかと振り返ったりもする。だからこそ強がっている感じがなく、作者の本心がありのまま描かれていることを感じることができるんです。ある意味ですごく人間らしさがあるというか。綺麗事ではない文章がグッと胸に響きました。
エッセイにおいて、作者の飾らないストレートな人柄を感じることができるかどうかというのは非常に重要な部分なんだと感じました。
弱さをさらけ出す勇気
このエッセイでは、仕事を辞めた作者の弱さがありありと描かれています。弱さがその人らしさを形作る「ユーモア」だと述べられており、筆者自身も自分の弱さを認めてこれでもかとさらけ出しています。
私はこの本を読んで、特に「自分の弱さを認めて受け入れる勇気」を得られたような気がします。人間は、己に対してどこか完璧主義な部分があり、自身の強さや長所を全面に出したくなります。弱さを見せるのは、怖い。どうしても怖い。それで無価値だと判定されてしまえば、立ち直れないかもしれない。しかし、本当に人に受け入れてもらうためには、自分の弱さを受け入れそれを惜しげもなく晒す必要があるのではないかと、そう筆者を暗に説いているわけですね。
逆に考えてみると、完璧な成功者よりも、弱い部分も持ち合わせている人の方がどこか安心感があり、接しやすかった記憶があります。実際作者への印象も、自身の弱さを受け入れていることによる人間的な余裕を感じました。
一生懸命生きなくていい
本著では、人生にとって回り道や一見ムダなこと、たとえば「自分がやりたいことだけやる」ことや「自分の足でお気に入りの飲食店を見つける」「裏路地に寄り道してみる」など、社会的成功とは遠いような物事に目が向けられています。
出世のためにやりたくないことを一生懸命にやる生き方ではなく、やりたいことをやって一生懸命にならない生き方をやんわりと提示し、肯定してくれているんですね。
実際読んでいて、韓国人にとって「出世」への重要性がどれほど高いのかが伺える内容となっていました。その一方で、多くの韓国人がそんな社会に疲弊している。できることなら出世など考えず、ありのままに生きたい。そう思っている人のいかに多いことか。
日本よりもさらに出世競争の激しい韓国というお国柄、多くの人はエリートになるために情熱を注いでいるのかと思っていました。しかし本当は、今歩んでいる道に対して迷いや悩みを抱えている。ある種ステレオタイプのように捉えてしまっていた、言語の異なる別の国の人々の本心、内面を少し知ることができたのも良かったなと思います。
『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』森下典子
大学時代から25年間お茶を習っているルポライター、エッセイストの筆者が、お茶を通して得た季節を五感で味わうことへの喜びを綴ったエッセイ。就職のつまづきや父の死などの人生のターニングポイントに、お茶は静かに寄り添ってくれた。「ここにいるだけで良い」と思えるようになった経緯とは…。
読む前と読んだ後では何もかも違う
お茶についての知識も興味もなかったのですが、まったく触れたことのない分野のエッセイも読んでみたいと思いこちらを選択しました。
…ものっすごい本でした。ものすごいです。ほんとに。
お茶を通して得られる感覚的な喜びが、見事に描かれているのです。感覚的なことを相手に伝わるように書くというのが、どれほど難しいことか。筆者の森下典子さんは、それが完璧にできている。そして、その感覚的な喜びの描写は、なんだか泣きたくなってしまうような、懐かしい類のものでした。
「お茶」に対する考え方が180度変わったうえに、どうしようもなくお茶に触れたくなってくる。なんたる力が込められたエッセイなのでしょう。驚愕です。エッセイって、こんなに人の心を動かすんですね。
読了後は、己の心に清流が流れているような、なんとも清らかな気持ちになりました。胸のつかえが取れたような、重荷が降りたような。読む前と読んだ後とでは、決定的に何かが違う。そんな心持ちです。
良いエッセイとは、少なからず読者の生活に影響を与えるものなのではないかと思いました。
長い目で今を生きる
本著で印象的な言葉が、「長い目で今を生きる」です。
うまくいかない現実に焦っていた筆者は、のんびりと時間が流れるお茶の稽古を煩わしく思う時期があります。しかし、次第にお茶から得られる「ここにいるだけで良い」という感覚が筆者を励まし、前向きな気持ちにさせていくのです。
タイトルになっている「日日是好日」も、一日一日をありがたがり大切に生きるという禅の心構えを指します。
ただ自分の存在をありのままに受け入れ、日々をありがたがる。簡単なようでいて、とても難しいことだと思います。そして、忙しない毎日のなかではついつい忘れてしまいそうな教えです。筆者は長年お茶の稽古に通うなかで、そうした精神を少しずつ身に付けていったんですね。
「分からないままで良い」お茶の世界
私自身がこれまで抱いていたお茶の印象と真逆だったことは、「分からないままで良い」という先生の教えです。お茶とは、多くの型式ばったルールのなか、淡々と行われる者だと思っていました。しかしこのエッセイを読んで、そんなイメージがガラリと変わります。お茶とは、いつまでたっても分かることのない迷宮のような世界。
筆者もはじめは、お茶の数多の作法に苦心します。一つ道具の使いかやを覚えたと思ったら、次週には新しいものに変わっていたり。まるで「分かった」という手応えのないお茶の世界に、戸惑っていた筆者。いつまでたっても上達の兆しが見えない自身が嫌になり、お茶をやめようかと迷った時もありました。
それでも筆者がお茶を愛し、稽古を続けていくことができたのは、まさにこの「いつまでたっても分からない」お茶の特性のおかげでした。分からないままで良いということは、分かろうと必死になる必要がないということ。それは、「少しでも早く正解を導き出せた者が優秀」という学校教育的な考え方とは全く異なる世界です。そんな、実は誰に対しても寛容なお茶の世界に、筆者は次第に安心して身を委ねるようになるのでした。この心境の変化の描き方がピカイチというわけですね。はああ(感嘆)。森下さんセンスえぐいです。
『人は他人 異なる思考を楽しむ工夫』さわぐちけいすけ
「他人同士」が仲良くする秘訣とは…?本著では、「夫婦が仲良くする秘訣」を描いた4ページの漫画「妻は他人」をはじめ、夫婦円満の秘訣・人付き合いを円滑にするための工夫などを描いた漫画が収録されています。
こちら、どうやら『妻は他人』というコミックエッセイの第二弾ということで。そうとは知らずに第二弾から手にとってしまいました。うっかり八兵衛。しかし「他人との異なる価値観を楽しむ工夫」というコンセプトは変わっていないようです。良かった。
他人の異なる価値観を楽しめるようになる本
大体の人間は、大小あれど、人間関係のなかで暮らしています。家族、恋人、友人、仕事仲間など…。完全なる孤独のなかで生きている人というのは、ほとんどいないでしょう。どんなに気が合う人でも、他人であり、異なった価値観を持っています。自分とは違う価値観に触れたとき、戸惑ったり、苛立ってしまったりすることもあるでしょう。本著では「好きな人が異なる価値観を持っていた時に、それを楽しむ工夫」が描かれています。
大切なのは、嫌いな人や苦手だと思う人と上手に付き合っていく方法が描かれいるわけではないということ。好きな人との関係を良好に保つためのヒントが満載のエッセイで、タイトルや作者のテンション感とは比例してとても前向きな内容が多かったように思います。
どこまでもドライな作者
本作では、どこまでもドライな作者、さわぐちさんの個性が光っていたように感じます。物事に執着せず、どこか達観しているように見えますが、締め切りに追われて疲弊していたり、ゲームをして喜んだりと人間らしい一面も垣間見ることができます。
特に読者のお悩みに応えている場面はなんとも秀逸。基本的に「分からない」という姿勢を取りつつ、ぼそりと相手の心を軽くするようなことを呟くスタイル。それも「ま、知らんけど」といった文言が最後につきそうなくらい、ライトな語り口です。
良い意味で相手を脱力させてしまうようなさわぐちさんのキャラクターは、このエッセイに大きな強みになっていると感じました。面白くて、1時間弱でさくさく読み終えることでができました。
センスって、なに?
5つの素晴らしいエッセイを、無事読み終え明日。刺激をもらってさぞ筆が乗る…かと思いきや、ふと立ち止まってしまいました。そう、自分の中に、ある疑問が生じていたのです。
センスのあるエッセイが書きたいと思っていたけど、センスっていったいなんだろう。
エッセイって、本当に色々な方が書かれています。作家はもちろん、役者やお笑い芸人など著名人から美術家、大手企業の社長、主婦、会社員、ウーバー配達員など。肩書きも年齢もさまざま。しかし、心に響くエッセイには、職業や年齢などを超えた、ある共通点があることが分かったんです。
心に響くエッセイの共通点
それは、「特別なことは書いていない」。
どんなに華々しい職業の人やすごい経歴を持っている人でも、ごく普通の暮らしから得た学びや感じたことなどを淡々と綴っているのです。最初は「なんだ、スターでも日常はこんなものなのか」と思っていましたが(すごくふてぶてしい)、読んでいくうちに、とても特別とは言い難いその人の何気ない毎日が、どうしようもなく愛しく感じてくる。何もない日常がどれほどかけがえのないものなのか、実感するようになる。これぞエッセイの醍醐味ではないかと思うようになったんです。
センスに囚われすぎていては、人の心に響くエッセイは書けないのかしれない。格好良い言葉を羅列して気取って書いてみても、所詮それは筆者の自己顕示欲の塊でしかないんですから。ん。自己顕示欲という言葉、身に覚えがあるぞ。それは確か5年ほど前…。
私の文章は自己顕示欲の塊?
私はふと、新人ライター時代、とある編集者の方に言われた言葉を思い出しました。
君の文章は、自分がこういう人間に思われたいっていう欲が出過ぎてる。
当時の私は、それがあまりにもどんぴしゃに的を得すぎた言葉だったからか、素直に受け取ることができませんでした。人って、あまりにもド直球な正論を浴びせられると、拗ねちゃうんですよね。まったく、可愛い生き物ですよね。
ちなみに、気になる私の反論はこちら。
でも。文章を生業に生きていこうと思っている人間って少なからず、自分の言葉やボキャブラリーが好きで、そこにプライドもあると思うんです。表現方法にこだわって、そこをクスッと笑ってもらえたり、もっと読みたいと思ってくれる人がいたらそれで良いと思うんですよね。
「でも」を最初に持ってくるライターなんてたかが知れていますね。しかもすごい早口だし。目泳いでるし。かっこわりい。目も当てられない。
案の定、書いた記事は大してPV数も伸びず、私はお払い箱となってしまいました。勿体無いことをしたと思います。あの時、あの偉大なる編集者の方のアドバイスを素直に受け入れていたら、こんな捻くれ者にならずにすんだやも知れず。しかし時は戻らないので、進むしかないですね。このまま。
心境の変化
今回偉大な先人たちのエッセイをじっくり読み、編集者の方に言われた決定的な言葉を思い出し、私の中に心境の変化が訪れました。
自分の感じたことや体験を、気取らず、素直にぶつけてみる。それがエッセイの第一歩なのかもしれない、と。
「センスのあるおしゃれなエッセイが書きたい」と思っていた当初からしたら、すごい心境の変化です。
いやセンス、捨てちゃうのって思われたセンス党支持派の方もいるでしょう。いや、センスは捨てません。捨てませんよ。センスは私のアイディンティティですから。だけど、「センス」という言葉の捉え方は変えていった方が良いかもしれないと思ったんです。
私はもしかして、「センス」を履き違えているのではないだろうか…。
センスとは「物事の機微」
私はこれまで、センスとは、「格好良いもの」「自分を魅力的に魅せるもの」だと思っていたんです。私の思い描くセンスのある人は、言葉がウィットに富んでいたり、ほかの人が聴かないマイナーだけど素敵な音楽を聴いていたり、こだわりのある古着屋で洋服を買っていたりしているんですよ。
でもね、ああお恥ずかしい。お恥ずかしい限りですよ。ライターであるにも関わらず、私は言葉の意味を捉え間違えていたんです。
センスとは、ずばり、こういうことなんだ!!
センスは、おしゃれや格好良いことじゃなかったんですね。センスは、機微。思慮や良識。決してひけらかすものではなく、とても慎ましやかなものだったんですね。どうして私はこれまでセンスという言葉を辞書で引かなかったんでしょうか。おそらく分かった気になっていたからでしょう。
そう考えると確かに、心に響いたエッセイは、物事の繊細な機微がありました。誰もが潜在的に感じていた、なんとも言葉に形容し難い繊細な感情。そういったものを見事に表現されているんですよね。
そもそも、私が触れたほとんどエッセイというのは、筆者のイメージアップのために書かれていないんです。星野源さんの『そして生活はつづく』にしても、そのままであれば華々しい芸能人である彼が自身の日常を描くことにより、自分たちのような普通の人間だと思わせるような仕組みになっている。スター性を捨て、圧倒的な共感を手にしてるんです。
それでも私はセンスのあるエッセイが書きたい
先人たちのエッセイを読み、センスという言葉の意味を理解し、そして行き着いた最終地点。それは…
それでも私はセンスのあるエッセイが書きたい。
ああ、往生際が悪い、なんて!言わないで!
今回さまざまな素晴らしいエッセイに触れて、自分もそんな機微のある文章を書きたいと思ったんです。つまり、本当の意味でセンスのあるエッセイが書きたい、ということ。
それは大前提での話ですが、やっぱり私…イカした文章が好きなんです。キャッチャーインザライのホールデンみたいな語り口に痺れちゃう性(タチ)なんです。「ダイヤモンドは砕けない」で白米3杯食べれちゃう人間なんです。かっこつけて文章を書いてる時が一番楽しいし、生き生きするんです。
譲れないものは、あって良いと思うんです。どれだけ馬鹿にされても、笑われても、私はセンスのあるかっこいい文章が書きたい。カッコつけちゃうところも、自分の人となりの一つ。ある種等身大の姿なのです。よし、うまく落とせたぞ。
センスありありエッセイを書いてみよう
というわけで、インプットのあとはアウトプット。実践といきましょうか。
1.テーマを決める
まずはエッセイのテーマ決めから行いましょう。これまで読んだエッセイから見るに、「自分と深く関係のあるもの」「自分自身のパーソナルな部分」「自分が関心のあること」「自分が日常的に感じていること」などが書きやすいのではないかと踏んでいます。
テーマは重要なのですごく悩みますが…私はよく自分のパーソナルな部分について考えることが多いので、それを題材にして考えて見ることにします。
ちょうど最近知人に「君ってヒューマニティに欠けるね」と言われ、その言葉についてうじうじと長い間考えていたところでした。あまりこの話を文章にしたいとは思っていなかったのですが、ここは自分をさらけ出すという意味を込めても思い切ってテーマにしてみます。
というわけで、テーマが決まりました!「トラウマが作り出す人間のヒューマニティの欠如」です。うーん、なかなか、かっこいいテーマですね。一発目のエッセイにふさわしいのではないでしょうか。
2.執筆スタート
それでは、実際に書いていきましょう。
今回は、文章やイラストなどを投稿できるクリエイターのためのメディアプラットフォーム、noteで書いていきたいと思います。
名前なんて、所詮記号に過ぎないのです。なんでも良いじゃない。ださいとか言うなださいとか。
実際書いてみると、エッセイは独り言のようなものなんだなと思いました。日頃街を歩いていたり、電車に乗っていたりする時に頭の中でぼんやり考えていることが、そのままエッセイになり得る。
物語と違って劇的なことを書く必要はない。ありのままの自分をそのままに映し出す。
うーん、簡単なように見えてすごく難しい。あれ、でも…
楽しい…!
書いているうちに、これまでぼんやりしていた自分の心の中がみるみる顕在化されていくよう。自分がどんなことに落ち込んだり、喜んだりしているかが、言葉にすることではっきりしてくる。知らなかった自分を知ることができる。なんだか霧が晴れたようで、嬉しい。喜ばしい!
そうか、私がこれまで読んできたエッセイたちも、そういう目的で書かれたのかもしれない。だから飾らず等身大で、そんなストレートさが心に響いたのかもしれない。うーん、エッセイ。知れば知るほどハマってしまいそうだなあ。エッセイ尾形ぁ!(だからださい)
3.完成!
数週間の時を経て、ついに、初エッセイが完成しました!
くうう…(噛み締める音)。嬉しい、嬉しいよ。なんだかこのうえない達成感!
タイトルはキャッチーに「さよならヒューマニティ」と名づけました。我ながらかっこいいなあ。
我が子のようさ愛おしさもありながら、自分の内側をさらけ出してしまった照れもあり、嬉し恥ずかしな心境です。
満足のいくエッセイが書けて、本当に良かった!先人たちの素晴らしいエッセイに触れなければ、こうした赤裸々な文章は書けなかったと思います。
かっこよくない自分を見せる勇気。これがすごく大事なことなのではないかなと思いました。
余談ですが、noteは始めたり、投稿したりするとバッジをもらえます。数日継続して書いただけでも、銅のバッジがもらえます。地味に嬉しくて、そしてちょっと照れる。小学生の頃、夏のプール教室で25m泳げたらもらえた謎の金色の紐を思い出しました。
まとめ
(近所で発見したきれいなゴミ山)
エッセイを書くなかで、いつしか私の目的は「センスのあるエッセイを書くこと」ではなく、「自分の内側を顕在化させること」に変わっていました。誰かにかっこいいと思われたいからではなく、自分のために書くという心持ちになったのです。
特別でない、なんなら自分では「ゴミ」みたいに思ってる感情やできごとでも、文章にすることで昇華できたり、消化できたりする。
無垢な心持ちで文章を書いてみると、これまでよりずっと楽しかった。かっこつけるんじゃなくて、書きながら自分自身を知っていくような感覚。それを知れただけでも、今回の試みには何にも変え難い価値があった、そう思います。
ちなみに筆者の書いた「さよならヒューマニティ」の全文は現在noteにて公開しておりますので、ぜひぜひご覧ください。生暖かいコメントも待ってます。「僕も私もエッセイ書いたよ!」という方は、ぜひ私に見せてください。本気で読みたい。
今年は時勢もありプールや夏祭りには行けなかったですが、エッセイづくしの素敵な夏となりました。ということで、結構ボリュームのある記事ではありましたが、めげずに最後までお読みいただきありがとうございました。そんなあなたが最高。エッセイ大好き!