勝ち負けに拘るとか無敗こそが強者だとか、そういう話です。
特に男性は必死になりやすい傾向ありますよね。
僕自身あまり勝ち負けにはさほど興味がない、というよりも共感性があまり無いタイプの人間らしいので、自分以外の人間に関心を持ちにくいのが理由だと個人的には思いますが、そんなタイプの人間でも能力を強化すること自体は非常に興味深く、知力なり武力なりなんなり力をアップすることはとても肯定的です。
とはいえ、女性からすれば「そんなことに必死になるより私のこと大事にしてよねー」というような感想も往々にしてあるでしょうが、男性というのは昔から戦いという役割を担ってきたわけで、そういう野蛮な価値観が大事というのは生物的にも自然だと言えば、一応はそれっぽい説明がつきます。
戦いを重視していた時代というのはそれこそ原始時代よろしく、モンスターみたいな動物との戦いを生き抜いたりしてきた時代の価値観なので、現代社会で腕っ節がどうだの力ある人間がカッコいいという価値観だけに囚われるのは、それこそ時代遅れというもの。
遅れっぷりでいえば数万年規模の時代遅れなので、「去年流行ってた服まだ着てるのダッッッサ!!!笑」なんて話では済みません。タイムマシンでも戻れるか戻れないかレベルの時代遅れです。
目次
なぜ勝ち負けにこだわるのか?
とはいえ、負けず嫌いなんて言葉があるように、人間を含めて動物というのは勝ち負けは昔っから生きる上で重要な要素でした。
そして現在でも、外敵との戦いやら狩猟がそこまで重要ではなくなった人間社会においても、どうして勝ち負けが重要視されるのか。それは動物の中で見られる社会性を持つ動物たちのなかでは、上下関係が発生するからですね。
社会性を作るということはつまり、集団のなかで過ごすということです。集団の中で過ごしていれば各々の役割が生まれてきて、そしてだれが強いか弱いかで、ボスができたり下っ端ができるわけです。
ヤンキー文化に見るシンプルな勝ち負け
それでいうとヤンキー文化は非常に動物らしい側面をモロ反映しているので、分かりやすいことでしょう。ヤンキー文化然り格闘漫画しかり、小さい男の子も大きい男の子もこういったジャンルに胸躍るのは、男性の戦いの本能というのが大きく関わっているわけです。
ゆえに「男らしい」だの「男らしく無い」なんて言葉も生まれるわけです。戦いの形はさまざまありますよね。
直接の暴力で勝ち負けを決めることもあれば、ルールを決めてのバトルなんてものもいろいろあります。スポーツがそのうちの一つとして考えられますよね。あれもルールを決めての勝ち負けです。
でもってスポーツやってて勝ち負けが好きな女子は「ボーイッシュ」だの「男っぽい」だの言われるのは、この闘争関連の要素がオスにあるからなわけで。男らしさとか女らしさなんて古い概念だという声もありつつも、オスらしい要素とメスらしい要素というのはあります。生き物なので。
勝ち負けいろいろ
このバトルの要素はいろんな派生をしていってるもので、本気で殺し合いをしていたギャングが血を流さないようなルールで勝敗を決めようと発展したのがブレイクダンスであり、暴力的な要素を含みつつも生き死にが関わらないように工夫されてきたのが、喧嘩であり格闘技です。
いま僕がタイムリーでハマっている作品でイニシャルDという漫画アニメ作品がありますが、これも走り屋という峠を車でレースするバトルものです。サーキットではカースポーツとして成立しているバトルでも、ストリートで行えばいつガケ下に落っこちるか、もしくはコンクリートの壁にブチ当るかの瀬戸際で行われるバトルでありゲームであり勝ち負けなので、より白熱するというものですね。
(公道で行うゆえに対向車がやってきて大迷惑だったりと、リアルに冗談じゃない要素も含んでいるのですが、危険であれば危険であるほど燃えるというのは、それこそ本能的な話なのでしょう)
生き死にが重要なのではなく、勝ち負けが重要。どちらが強いかを証明することは、社会生活を営む生物にとっては自然発生するわけです。
勝ち負けって必要なの?
群れで生活する生物は社会性を持ちます。この社会性とはつまり、集団で生活していることでメリットがあるからこそ形成されるわけです。
あれこれメリットがある中で、大きなものを挙げると「生存しやすい」というのがあります。人間でも不良が群れたりするのは1人でいるよりも敵対グループに勝てるからです。女子がグループを形成して群れるのも、やはり孤立するより生存生活しやすいからです。
厳密に言えば弱い生物ほど群れなければ個人で生き抜けないため、集団に属する必要があります。
だからこそ嫌なことがあったりしても我慢して自分を押し殺して集団に属するという人も多く(というより生物の大部分は弱者で形成されているので当然ですが)、一生懸命に社会性を守りながら悩みが尽きない人も多いのでしょう。
熊とか単独行動の生き物ですけど、あれは生物界の頂点に君臨しているゆえに単独でも生きていけるからですしね。
このように絶対的な強者は勝ち負けを必要としません。勝ち負けが必要なのは競い合う必要のある存在です。ゆえに孤高だのソロで生存できる存在というものは憧れの対象になるわけです。絶対的に強いからこそ、ソロで生きることができる。漫画作品やらゲームで最強のキャラといえば、作中に1人は群れずに行動する人いますよね。だからまあ熊みたいなものです。
なぜ仲間内で勝ち負けが必要になる?
では不思議なもので、どうして同族で仲間うちで勝ち負けが必要になるのでしょうか。だって群れていて集まっていた方が生き残りやすいのに、仲間内で強いだの弱いだのを決める必要がいったいどこにあるのか?
仲間内だからこそ強い弱いが必要になったりするわけですよねこれが!
理由は幾つかあるんですが、なかでも過酷な理由を。
これめっちゃくちゃ残酷な話なんですが。
というよりも生物なんていうのは生き死にがすべてなので残酷なんてものは存在しないのですが。
弱い奴が群れにいたら邪魔なんですよね。
エッぐい辛辣!!!!!!!!!!!
しかしこれはリアルにそういう話になります。そもそも考えてみてくださいってな話で、なぜ群れが形成されるのか?
集まって泳いで大魚化したスイミー
生存する確率を上げるために群れはできるわけですよね。水中世界でもイワシの群れがあります。世界中で愛されているスイミーという絵本の姿が子供時代の思い出なんて方も多いのではないでしょうか。
このイワシの群れについても、なぜ集まって泳いでいるのかというと、大群に紛れて自分自身が捕食される可能性を下げるためです。
また、群れで泳ぐことで大きな魚のように見えますよね。これはつまりハッタリです。大きな魚たちよりも、より大きな魚のように見せて小さな魚たちが生存するのです。
まさにスイミー!結束の力!生命の力とはかくも偉大で美しい!
残酷ゆえにシンプルなルールで生き死にを送っている彼ら彼女らですが、群れの力とはこういう利点があります。ヤンキーやら女子グループやらそうでもなく普通に人が集まるのも同じで、群れていれば1体1体が弱くてもなんとかなるわけです。
弱過ぎる個体は群れに居てもらっちゃあ困る
ですが、群れに弱い生き物が混ざっていると、それはそれで足手まといになります。
なんでかっていうと集団には社会性、つまりルールやらがあってこそ成立します。そのルールを壊すような存在は群れにとって危険なのです。周りに合わせられない存在は害になります。
周りに合わす必要がないほど強ければ単体で生存可能ですが、弱い生物同士は群れて寄り添わなければ生きていけません。弱者を守るために弱者同士が結束しているのが群れという言い方もできますね。
しかし弱者の中でもあまりに弱い存在は、群れの安全を脅かす存在になります。そういう存在は群れからすらも排除されるのです。
シャレにならない自然界の淘汰プログラム
これは生物にとっても別に不思議なことではなく、親鳥が雛の卵を割ったり、ライオンのオスがほかの群れを乗っ取って前の雄が残した個体をすべて噛み殺したり、サルでもあーだこーだで乳児をヤっちゃうなんてことがあるほど、自然界でも同族での殺生は存在します。
この淘汰はメスが発情しないゆえに交尾ができないからなど、単純に勝ち負けどうこうだけではない理由もあります。
だた、一言でいえば群れを守るため、より優秀な遺伝子を残すための生物のプログラムであり、進化生物学的にみても興味深い話なんですが、まあとにかく言えることは同族だからって同族に優しいわけじゃないんですよ。
それこそ虐待やらイジメというのも生物的にはぜんぜん自然なことですからね。
なんかどんどん気分がどん底になっていくような話題な気もするんですが、とにかく生物にとっての勝ち負けはそのまま死に直結するような自体なわけで、なーんとなく人に勝ちたいとか負けて悔しいとか言って悩めてる人間というのは幸せなんですよね。別に他人に勝とうが負けようが生き死にに関わらないので。
だからぶっちゃけていえば勝ち負けにこだわるのはしょーもないという。一応これ個人的な意見って注釈は入れておきます。
藤原拓海に見る勝ち負けの美学
個人的には他人との勝ち負けに拘るのは、生物的にみてもそんなに魅力を感じることではないのですが、その理由は生き死にのかかっている生物界から見て、単純に自分の気持ちを満足させるためのプライドのために一生懸命やって勝ちたい様が滑稽だったりするわけです。
で、そこに関係してくるのがちょうど僕がタイムリーに触れているイニシャルDって作品ですね。
この作品には藤原拓海という主人公が走り屋として登場します。
基本的に走り屋は勝ち負けの世界がエゲツナイ超モロで、とにかく自分のプライドやらメンツやらチームやら地元の誇りをかけて公道の峠道を大迷惑極まりない超カッケーカーレースで攻めています。(しかも実際の峠道をモチーフにしているので真似したキッズもどれだけいたことかー笑えん!)
己のプライドのために必死こいて戦う人物が9.9割のなか、主人公の藤原拓海だけは違います。本人は負けず嫌いな一面が誰よりも強いのですが、その勝ち負けの方向性がほかのキャラクターとは違った様相なのです。
だれかに勝つか負けるかはあまり重視しておらず、とにかく自分のマシンであるハチロクで速く走ることができるかを追求します。
そのため、だれかに勝つか負けるかではなく、自分の能力をアップすることができれば、別に負けたっていいというスタンスなのです。
この感覚にはライバルキャラどころか地元仲間も困惑しっぱなしなのですが、主人公の藤原拓海は常にマイペースで自分の価値観で強くなることを求め続けています。
他人と競うか自分と競うか
その彼に作中屈指のキャラたちも魅せられることになりますが、ここで重要なのは藤原拓海が常に自分を磨くことに徹しているという点です。
だれかに勝つか負けるかではなく、常に自分に勝つか負けるかを重視しているといえばいいかもしれません。
他人との勝ち負けを重視する人は、言い換えれば他人がいなければ自己を成立できない人間と言えます。
それはあまりに脆弱であり、他人との比較の中でしか自己を見出せない価値観は、常に不安定な中にいるため、かなりシンドイ生き方ともいえますね。
一応ほかのキャラの補足もしておくと、藤原拓海以外もものすげえカッコいいです。
なぜなら他人と競う合うことを重視していながら、作中の負けず嫌いなキャラたちは、それでも魅力のあるキャラばかりだから。
すぐに自分が負けたことを認めて、己の強さを追求するからどのキャラもカッコいいですが、まあこういう人はそうそういない。
速くなることだけを追求する主人公・藤原拓海の姿
その点、藤原拓海は飽くなき強さを追い求め、峠の走り屋からプロのレーサーを目指そうと誓います。
彼の存在は作中で特異であり、多くのキャラクターが彼を不思議がります。みんなこぞってマシンをカッコよくカスタマイズする中で、彼は豆腐屋の父親の配達用の車でレースしますからね。
(側面には”藤原とうふ店”と思いっきり書かれてます。店の車なので)
いろんなものに執着せず、というか他人からどう見えるかとかどう思われるとか一切合切どうでもよく、ただただ速く走りたいと思って自分のスキルを磨く藤原拓海の姿は、現代人が見習うべき姿だと思います。
言っちゃあなんですが、無駄に他人と競おうとして「競って勝った後にはいったい何があるの?」と聞いて言葉を詰まらせるような人が多い感じするので、ただただ自分を磨くことだけに集中してりゃあ変に悩むこともないと思うんですよね。
仮に群れの中に入ったとしても、自己を高めていれば弱者としてハブられることはなく、強者として必要とされます。まあ強すぎると逆に群れからハブられることもありますが、強かったら単独で生きていけますからね。熊のように。
マイペースに自分を磨いていこう
イニシャルDに触れていて僕自身が常に思っていたのが、「なんかみんな他人との戦いに必死だなおい」というのでした。いやそういう人が現実に多いのは知っていますよ(というかほとんどがそう)。そういう人が多いから作品でもそういう人が大多数だったわけで。
でも藤原拓海のスタンスの方が個人的には共感できるし、こっちの方がいいじゃんと思ったわけです。作中でも珍しいですし、実際の現実でも少ない価値観だとは思います。
けど、勝ち負けが生き死にに関わらない人間社会ならマイペースな方が結果的に生きやすいと思うんですよねー。楽しく生きられるっていう。
生き死にが関わっていない勝ち負けなんて全部遊びです。
けれど安全が約束された勝ち負けだけに真剣な人がかなり多くて生き死にが関わる勝ち負けは全部避けようとする人が多い感じなので、それなら始めっから勝ち負けなんてやる意味ない気するんですが。
勝った気になりたい強い気でいたい、というか勝った気でいるだけで満足なのが現代人のスタンダードということでしょうか。…意味あるかそれ?
何にしても自分に集中してりゃあそれでいいというのが、勝ち負けに拘るよりもいいんじゃないかなーと感じます。
藤原拓海のように、自分を高めることだけに集中しましょうという感じで。
でも峠の走り屋は迷惑行為だからやめましょー!!エッぐい冗談じゃない迷惑ですからねマジで。